大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和41年(あ)1172号 判決 1966年12月22日

主文

原判決を破棄する。

本件を広島高等裁判所に差し戻す。

理由

弁護人鍋谷幾次の上告趣意は、判例違反をいうが、引用の判例は、いずれも事案を異にして本件に適切でないから、適法な上告理由にあたらない。

しかし、職権をもつて記録を調べてみると、被告人は殺人の犯罪事実があるとして起訴されたのであるが、第一審判決は、殺意の証明がないとして被告人に対し傷害致死の犯罪事実を認定し、刑法二〇五条一項を適用して被告人を懲役三年執行猶予五年に処した。これに対し原審は、検察官からの控訴に基づき第一審判決が殺意の存在を否定し、傷害致死と認定したのは判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認であるとして第一審判決を破棄し、何らみずから事実の取調をしないで、刑訴法四〇〇条但書により、第一審裁判所が取り調べた証拠のみによつて、「……被告人は憤激のあまり、どうにでもなれという気持になり万次郎を死に致すかも知れないことを認識しながら敢えて右庖丁を以て同人の左腹部左前胸部等を数回強く突き刺し、……以て殺害したものである。」との殺人の事実を認定し、刑法一九九条を適用して、被告人を懲役三年の実刑に処したものであることが明らかである。

このように、殺人の公訴事実について、第一審が殺意の存在を否定したのに対し、控訴審が何らみずから事実の取調をしないで第一審で取り調べた証拠のみによつて未必の故意があると認定し、殺人罪として処断することが、刑訴法四〇〇条但書の解釈上許されないことは、当裁判所の判例(昭和二六年(あ)第二四三六号同三一年七月一八日大法廷判決、刑集一〇巻七号一一四七頁。昭和三〇年(あ)第二二四四号同三二年六月二一日第二小法廷判決、刑集一一巻六号一七二一頁)の趣旨に照らし明らかであるから、この点において原判決は違法であり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。

よつて刑訴法四一一条一号、四一三条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。(松田二郎 入江俊郎 長部謹吾 岩田誠 大隅健一郎)

弁護人鍋谷幾次の上告趣意

原判決には刑事訴訟法第四〇五条三号の判例違反があり、破棄を免れない。

一、原判決は、第一審判決が検察官主張の被告人の殺意を否定し、本件被告人の所為に対し傷害致死罪をもつて問擬したに拘らず、何等事実の取調をすることなく、漫然第一審判決挙示の証拠のみにより、被告人の犯行当時の心理状態にはなお未必的殺意ありとし、殺人罪の規定を適用して被告人に対し懲役刑の実刑を科したのであるが、その理由とするところは、「被告人が本件犯行に及んだ動機、犯行の用に供した鋭利な出刃包丁、与えた刺傷の部位程度を併せ徴すると、未必的殺意の存在を認定するのが相当であり、被告人の検察官に対する供述調書にも被告人の供述として同趣旨の供述記載がある」からというのである。

二、しかしながら、第一審判決挙示の証拠によると、(1)被害者万次郎は酒乱の性癖甚だしく飲酒すると被告人方へきて乱暴狼藉を働いたこと、(2)被告人は未だ万次郎の喧嘩相手となつたことはなく、平素は仲良く出漁していたこと、(3)本件犯行の発端は相手の理由なき挑発行為からであり、ついに喧嘩となつたが一般の喧嘩斗争と違い、被告人はただ防禦に終始し相手の執拗な攻撃を止めさせる意思で喧嘩相手となつており、出刃庖丁の持出しは相手の攻撃を威嚇牽制するのが目的であつたこと、(4)被告人は相手から柱に頭をこすりつけられ、更に両手で首を次第に強く締めつけられて苦しくなり、激昂の末出刃庖丁を突き出したのであつて、当初から相手の左下腹部及び左前胸部を目蒐けて突き刺したものではないこと、(5)仰向けに倒れた相手を見るや、被告人は抱くようにして相手に取りすがり、「すまんことをした万次郎許してくれ」と泣き叫び、「早く医者を呼んでくれ」、「誰かきてくれ警察を呼んでくれ」等と大声で叫び続けたこと等を認めるに十分である。

ことに右(5)の事実は被告人の犯行当時の心理状態に未必的殺意の存在を否定する明確な情況証拠というべきである。

三、未必の故意とは、「結果発生の可能性を認識しながらその発生を許容する心的状態をいい、その可能性を一応認識したにしても、その結果の発生を認容したわけではなかつた場合には未必の故意を認めることはできない」との判例(昭和三一年(う)第四三号、同三二年三月一一日高松高等裁判所第三刑事部判決、高刑裁報四巻五号九九頁参照)のとおりであり、本件の場合、前記(5)の事実から考察する時は、被告人は相手を見蒐けて咄嗟に出刃庖丁を突き出すことにより相手に死の結果の発生の可能性を一応認識したかも知れないが、未だ死の結果の発生を認容したものでないことは、採証法則上明認できる許りでなく、一般の社会常識上からしても優に首肯し得られる(本弁護人の第一審弁論要旨参照)のに、原判決は右判例と異る判断をなし、更に、たとい、被告人の検察官に対する供述調書中に殺人の未必的故意を認めるかのような記載があるにしても、前記(1)ないし(5)の事実を併せ考えれば、出刃庖丁の突き出しは、被告人において相手の理不尽、かつ執拗な攻撃に激昂興奮の末見境なくして行われたものであることも、また明白であり、かかる場合犯行の用に供した兇器、刺傷の部位程度の如何を重視することなく未だ殺人の犯意ありとするに足りない、と判示した判例(昭和三四年(う)第三二号、同年三月三一日福岡高等裁判所第三刑事部判決、下級刑集一巻三号五七五頁参照)に反する判断をもなしたといわねばならない。

されば、原判決が第一審判決を破棄し、被告人に対する本件所為を目して刑法第一九九条に擬律したことは、未必の故意の解釈を誤り、前記各判例と相反する判断をなした違法があるに帰し、破棄を免れないと思料する。

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